夜明けの地平線に日がさすまで

徒然なるままに結成25周年おじさんに向かひて

結成25周年のおじさんたちに出戻りした話。(前編)

 

新型コロナウイルスが各所に甚大な影響を及ぼしている今日この頃、私のYouTubeのあなたへのおすすめ欄に突如衝撃が走った。白い文字で "The ONES"と書かれたサムネイル、発信アカウント名はavex...あれ?何か聞いたことある!?私知ってる?!!いや私参戦したやないかい!!!!!突然の驚きとドキドキワクワクを胸にサムネイルをタップすると、そこにはV6 LIVE TOUR 2017 The ONESが公開されていた。この公開を機にあっという間に私の第二(第三?)のジャニヲタ人生がスタートしてしまうのである。

 

 

 

※ arsからの担降り話が含まれます。苦手な方は自衛をお願いします。

 

 

 

○ かつては(英才教育を施された)ジャニヲタ子だった私

私の第一次ジャニヲタ期が始まったとき、私は母親の胎内にいた。そう、私の母親はジャニヲタであった。私を身篭った約22年前はちょうどJr.黄金期と呼ばれていた頃で、その頃の母はデビュー前のあどけない櫻井くんを推していた。私が胎内にいる間、母はジャニーズJr.が出演する番組にキャーキャー声を上げ、「この子が男の子だったら“翔”と名付けよう」と密かに考えていたらしい。(期待は虚しく女の子でごめん、母)

櫻井くんが嵐としてハワイ船上デビュー会見を行う約5ヶ月前に私が誕生。「あの日の生中継やワイドショー、一緒に起きて見てたのよ」「(私が)寝静まった後、真夜中の嵐とかCの嵐見てたなあ」と懐かしそうに語る母、ただの櫻井ヲタ。(Cの嵐があまりにも酷で可哀想すぎて追うのは途中でやめたそうな)こんな母の影響もあってあれよあれよとジャニーズと共に成長していく。私の中で一番古い記憶は時系列順には整理できないのだが、学校へ行こう!MAXでV6が浅田真央ちゃん(?)と共にスケートする回とかHEY!3で嵐が真っ赤な衣装着てトークしてる回(後にWISHだったんだと理解...)多分ここら辺で2005年くらい。私は6歳。

そこからは嵐ファンとして完成されていくまではあっという間で、嵐の人気爆発と10周年アニバーサリーのおかげでクラスの話題は嵐かAKBか、みたいな時代だった。Love so sweetとかHappinessを運動会で踊る時代、なんて平和。ひみつの嵐ちゃんは初回から最終回まで1回も欠かすことなく見たし、嵐の宿題くんでやってたダイラタンシーは再現しようとして親に怒られた。宿題くんが終わったときは心の底から悲しかったのを覚えている。(後述)

 

 

○ コンサートで繋ぎ止める10代前半ヲタク人生

共感してくれる方もいるかと思うが、2000年代後半のワイドショーやネットニュースには芸能人の熱愛報道や下世話なスキャンダル、くだらない「〇〇と××が不仲!」みたいな盛り盛り情報がたくさん流れていた記憶がある。インターネットの普及も十分だったあの時代、小中学生の話題も例に漏れずトンチンカンな情報に左右された。幼いながらにここら辺で違和感を感じ始めたのは明確に覚えている。

と同時に嵐が怒涛のゴールデン進出。正直嬉しいのか悲しいのか寂しいのかよく分からなかった。だってゴールデンタイムに始まったばかりの当初、軒並み私には面白さが分からなかったから。現在は10年以上続く番組もいくつかあるが、最初のテコ入れの多さを見れば恐らくそれは歴然なのだろう。それに加えて私の大好きだった「嵐の宿題くん」が終了した、のはまだ理解ができる。本気で違和感を感じた10周年以降、真夜中の嵐の映像やネタを使用することはあってもCの嵐嵐の宿題くんについては一切触れられなくなったこと。宿題くんの終了に伴って用意されたのは土曜10時の「嵐にしやがれ」で実質後番組なのに、どうして嵐サイドはCの嵐〜宿題くんまでをなかったことにするのだろう、と。それが大人の事情なのかただ消したい過去なのかは私には知り得ない。

そんな最中、母の意向もあって2011年にファンクラブに加入した。経済的な環境と他者の娯楽に厳しい父親の影響もあってかなりの遅出だと思う。初めて当選したコンサートは2012年のPopcornだった。詳細な感想は割愛するが、「嵐」というほとんど架空の偶像のような存在に会えたことは感激やむなしだが、私の中にあったコンサートの期待値とは程遠かった気がする。そこで気づいたのは、彼らのターゲット層はあくまで「万人」、大多数の10周年付近からのファンなのだと。プラチナチケットを手にしておきながら随分と生意気な講釈を垂れてやがると思われるかもしれないが、ドームのほぼほぼ天井席から見るとモニターも彼らも豆粒、曲目は毎年似たようなラインナップの定番曲ばかり。(ファン投票を募ったアラフェスですら同様の結果だったので同意見の人もいるのではないか)CDを買っても歌唱されないカップリングの方が多い。ふと「私はこのターゲット層からズレているのではないか」と思うようになった。でも会費を払いさえすれば数年に1度だけ当選するプラチナチケットはずるずると活動を追い続けるのに十分な燃料だった。思えばこの頃には嵐ファンとしての最戦線は離脱していたのかもしれない。

 

 

○ 人生初の担降り、そしてV6という沼に出会うまで

正直担降りという感覚は全くなく、いつの日からか雑誌の発売日に書店に通ったりワイドショーのラテ欄「嵐」の文字を探すことはなくなって、自然に自分の生活から嵐を追いかけるという癖が抜けていった。そのとき私は初めて自分自身がアイドルに対してとてつもない労力と時間と僅かばかりのお小遣いを注いでいたのだと気がついた。しかしそれらは決して貯蓄されることなく、向いた先は私が同時進行で大好きだった安室奈美恵だった。安室ちゃんのステージはすごい。これも語り始めると止まらないので割愛するが、彼女は約2時間ほどの公演時間の中でお着替えタイム以外は常に踊るか歌っている。特効や映像も綺麗だけど、その身ひとつで魅せるパフォーマンスは圧巻だった。今になって思う、私はどんなに派手で綺麗な演出よりも踊りや歌が見たいのかもしれない。アンコールまでもシャカリキに踊るアーティストは安室ちゃんとV6以外に私は知らない。

担降りの実感もなければ、乗換のタイミングもあまり記憶がない。中学生くらいで借りて見たタイガー&ドラゴンが大好きで、そこから岡田出演作品を借りるようになったんだっけ。木更津キャッツアイの話がないかな〜とほんのり期待して、イケメン岡田が表紙だった『オカダのはなし』を買ったのも覚えている。宮藤官九郎脚本とか堤幸彦脚本が好きでそこら辺を追っていたからだろうか、びっくりするくらい記憶がないんだけどいつの間にか岡田准一に興味を持っていた。そして俳優・岡田准一のアイドルしてる姿を見たくて試しに検索して見た2008年Vibesコン1曲目『NEXPLOSION』で衝撃を受け、V6という沼に出会ってしまう15歳の夏。

 

 

つづく!